土井氏の系図
 土井利重−利昌−利勝−利隆−利重−利久−利益−−(下総古河城主)
           −利房−利知−利寛−利貞−−(越前大野城主)
           −利長−利意−利庸−利信−−(三河刈谷城主)

1土井利昌の墓碑
 所在地  岡崎市中之郷元山 大聖寺内
 土井利昌は、父利重の子で碧海郡土井村に生まれ、別名を早乙女小左衛門利昌と称し、また、通称は甚三郎と呼んだ。
 長じて家康に仕え多くの戦陣で軍功をたて、慶長3年(1598)9月11日没し、法名を見貞と称した。
 遺体は碧海郡中之郷の大聖寺に葬られ、後、分骨して下総国(千葉県)佐倉に改葬し一寺を建立して松林寺と称した。
2土井一族発蹟地の碑(土井利勝)
 所在地  岡崎市土井町蔵屋敷
 土井利勝は幼名を竹千代のち甚三郎、長じて大炊助または大炊頭と称した。出生は天正元年(1953)浜松に生まれ、生まれた時は家康より相州広正のの短刀を賜ったと伝えられる。
 利勝の出生には多くの説があり、一説には三河刈谷城主水野信元(家康の生母於大の方の兄)の庶子であるといわれ、また、一説には家康の妾腹の子であるといわれる。
 家康の妾腹の説によると利勝の父は系譜的には早乙女小左衛門利昌で、はじめ土居と称して家康に仕えた。元亀元年(1570)6月家康が浜松に居城を移すと利昌父娘は城中に召され、天正元年(1537)娘(後玉等院)が出産すると姓を松長甚三郎と名付けられて水野信元の養子とされた。
 しかし、天正3年水野信元が佐久間信盛のざん言によって織田信長に岡崎で暗殺させられると、生母は甚三郎を利昌の養子にしたという。
 利勝は幼少の時より家康に仕え、天正7年4月秀忠(二代将軍)が生まれると、安藤重信、青山忠成と共に7歳にして秀忠の子守役となった。
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いがおきると、利勝は秀忠に従って信濃上田城の真田昌幸を攻め、同7年下総小見川で一万石を所領した。そして、同9年朝鮮使節が来日するとその慶事を奉行し、つづいて、十年秀忠が御陽成天皇に参内すると、秀忠に随行し従五位下大炊頭に任じられた。また、同一三年には浄土宗と日蓮宗の論争に裁断を下して政治的手腕を見せ、同一五年下総佐倉に移って三万石を所領した。
 その後、元和元年(1615)豊臣氏滅亡の大阪夏の陣がおきると、利勝は岡山の戦いで軍功をたて、秀忠より猿毛柄の槍を贈られた。また、この夏には青山忠俊と共に家光(三代将軍)のお守り役となって、元和二年家康が没し、翌三年久能山(日光)に葬られるとその儀式の総元を勤めた。
 そして、元和九年秀忠が「天下と共に土井利勝を譲る」と称し将軍職を三代家光に譲ると、利勝は家光に仕え、寛永二年(1625)には一四万石を領して佐倉城を築き、同十年には十六万石を領して古河(茨木県)の城主となった。
 そしの後、利勝は多くの政治的功績を残して、同十三年に統一貨幣の寛永通宝が鋳造されるとその総支配をあずかり、同十五年には大老職に進んで寛永の三傑といわれた青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助けた。
 土井利勝は家康、秀忠、家光の三代に仕えて徳川幕府の基礎を築き、幕府体制の確立に貢献することが多かったが、正保元年(1644)六月病にかかり、将軍代参の松平信綱から見舞いを受けたが同年七月十日72歳で没した。法名を隠誉泰翁覚玄宝地院と称し江戸芝の増上寺に葬られた。
 なお、この碑は、大正6年3月、元下総古河城主土井利与、元三河刈谷城主土井利美、元越前大野城主土井利綱の寄進で建てられたものである。
土井氏の譜
 土井氏は、美濃市の豪族であった土岐氏の後裔で、系図によれば土岐光定の子定親、その子師親、その二男貞秀とある。しかし、貞秀後の系譜は明確を欠き、利重ごろから早乙女と姓を名乗り、その子利昌になって土井と称して子の利勝に至った。
 利勝の子孫は、下総古河城主、越前大野城主、三河刈谷城主となり、その中からは幕府の要職であった大老や老中になった者も現れた。
土井氏一族の発祥地
土井一族発蹟地の碑
碑のある社口神社