松井本和蝋燭工房前に植えられているハゼノキ

ハゼノキ(ウルシ科)

「ハニシ、ハジ、ハジノキ、リュウキュウハゼ」
 ウルシ科    生薬名(木蝋)
 薬用部     根皮 種子
 薬効      止血、解毒、木蝋の原料


木蝋原料、出血、解毒
10mの高木もあり、雌雄異株で、暖地に自生する。また栽培もされる。枝と葉の両面は全く無毛で
葉裏は白みがある。類似のウルシやハマハゼは枝と葉裏には多少毛があり葉裏は白くない。
・薬用部分……種子、根皮。
・採取時期……種子は秋、根皮は必要時。

本州(関東南部以西)四国、九州、沖縄に自生また栽培もされる。中国、台湾、マレーシア、インドにも
分布する。ハゼノキを単にハゼ、またはリュウキュウハゼとも言う。

【筑前で栽培開始】
天正19年(1591)に筑前(福岡県)の貿易商、島井宗室や神谷宗湛が種子を中国から伝えたのが
始まりとされ、蝋をとるために筑前に栽培、その後九州一円に広まった。
またそれと別に、江戸中期に中国から沖縄を経由して、薩摩(鹿児島)にも栽培が始まる。
薩摩半島の開聞岳の山麓を歩くと、巨木があちらこちらに見られるが、そのころのものである。
薩摩藩は慶応3年(1876)、パリ万国博覧会ハゼノキからとった木蝋を出品している。

【名前の由来】
白井光太郎著「樹木和名考」(1932)に「我邦古代にありてはリュウキュウハゼを生産せず、
古代より中古にハゼと称せし木は今日のヤマウルシを指すとある。
古代のハゼ、今日のヤマウルシに「和名抄」(932)は黄木盧の漢名をあげ、和名をハニシとした。
ハニシは埴輪をつくる工人、埴師(はにし)のことで、転じて埴土(埴輪を作る粘土)の色からきた説がある。
 ヤマウルシは秋の紅葉が美しく、これが埴輪の色に似ているのでハニシになり、ハジ、さらにハゼと変化したのであろう。  今日の中国ではハゼノキに野漆樹や木蝋樹をあてている。

【採取時期と調整法】
 根皮は必要なときにとり、水洗い後日干しに、種子は秋にとるが、製蝋工場用で一般民間薬にはしない。
成分:根皮成分は未精査、種子は脂肪油約30%を含み、パルミチン酸、オレイン酸、また日本産と
呼ばれるものを含む。

【よく似た植物】
 ヤマハゼが似ているが、これは東海道以西の山地に自生し高さ5mになる。
 小高木、若葉や小葉の裏面に褐色の毛が密生しているのでハゼの木と区別される。

【薬効と用い方、止血、はれものの解毒】 
 乾燥した根皮20〜30gをコップ2杯の水に半量になるまで煎じて、この煎液で患部を洗うとよい。秋には採 取した果実は採蝋所(専門工場)で圧搾法、抽出法、水圧法などによって採蝋して木蝋をつくる。日本産の木蝋は世界的に高く評価され軟膏の基礎剤として重要で現在広く利用されている。

【島井宗室】【神屋宗湛】
 神屋宗 湛-西日本人物読9
 武野要子「櫨蝋しぼりと宗湛」
「神屋家田緒書」によれば、神谷家の仕事として、蝋燭しぼりの製法と黒田藩への勤め、家中や在の者で櫨を植えたいと希望する者へは、余分に仕入れた苗木を与えたため、蝋坂場株の習得を許された。
 大阪船積み運上の権利を頂戴したという。これを裏付ける確固たる史料を見当たらないが次のように考えられる。

【黒田藩の神谷家救済策】  ろうそくがわが国で用いられ始められたのは奈良時代と言われてが、中国から輸入された貴重品として、宮廷や寺院の一部で用いられたにすぎなかった。 「大閣記」によれば、1594 (文禄3)年に堺の薬屋(納屋力)助左衛門ガルソンから帰って、ろうそく千丁を貢献したとある。  ろうそくが中国からの輸入品であったことは確かなようだ。  天文、永禄期になると、国産のろうそくも製造された。  その製造技術が輸入されたのである。

【朝倉町史】
 越前のハゼは一説によると天和年間(1615〜23)博多の豪商神谷宗湛が、中国からその製法を伝習し、
 自ら生産しその販売の独占権握って、大阪に出荷したのにはじまりといわれる。
 また一説には、博多大浜町北国某という者が薩摩に行ったとき、其地で櫨蝋の利益あるのを見て其家を持ち帰えられたとしたが、薩摩藩では外国に出すことを禁じていたため、思いをめぐらし弁当箱の底にハゼの実を入れ、 その上に飯を盛って持ち帰り、其の種子を蒔き育てた。
 これにより国中に繁茂するに到ったがその年代は不明という。
 本格的栽培は、享保15年(1730)郡珂郡山田村の高橋善蔵に始まるとされ「窮民夜光之珠」を著して櫨栽培の利益を説いた。
 そして同地に櫨苗仕立所を説けて苗の分配、成育指導に当らせた。

        福岡県立図書館
        八女民族資料館


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