釈迦如来絵伝に寄せて

応仁寺釈迦絵伝 応仁二年(1468)蓮如上人は、応仁の乱を避けると共に、近江より東国の地域を活動の場として動機を持たれ佐々木如光所縁の地、三河地方を巡化された。この年の三月に本願寺八代の蓮如上人は、第五男の実如上人に譲状をしたためる。その直後の五月から三河での活動が始まったとされる。このとき拠点となった寺院が碧南市西端にある応仁寺である。
 この寺院に所蔵されている数多い宝物の中に「釈迦如来絵伝 四幅」がある。この寺院は蓮如上人が京都に帰られた後、地元の同行によって維持管理され続けてきた希有なる仏閣である。結果西端にはひとが育ち、そこから道心ある語りべが現れては宝物の絵解きを行ってきた。そしてこの伝統は現在も続いている。今回絵解きをさせて戴く絵伝は先達の汗が染みこんだ絵伝であり、それを絵解き座の趣旨に賛同して複製を許可戴いたものだ。 この絵伝の印象深い絵相のひとつは、霊鷲山の描かれた第四幅である。比較的地震の少ないインド大陸であるが、お釈迦様が教えを説いたマガダ国周辺では火山が確認される。その外輪山がマガダの国をくるり取り囲んでいる。むしろ外輪山の内側の盆地に都市が形成されたと言った方が正確かもしれない。近隣諸国との緊張関係が続く時代では、外輪山を城郭として使用していたのだ。経典に登場する「王舎城」という言葉はマガダ国の都市を表す。これは民族の自立自治を大切にする大陸都市の多くが外敵から身を護ることの出来る城郭内に居住地を形成した為だ。つまり都市を城というのである。そのマガダの国を象徴する霊鷲山(りょうじゅせん)が都市にいるものと同じ感覚で仰ぎ見ることができるよう描き込まれている。この構図が私の一番のお気に入りである。
 いま先達が受け継いできた釈迦一代記を顕した掛け幅に注目して、この絵解きに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

寄稿:絵解き座 左右田智世