絵解き文化の再発見と可能性

名古屋大学(人類文化遺産テクスト学研究センター)
阿 部 泰 郎

三河すーぱー絵解き座との出会い
 今から十年以上も前、よく通っていた西尾の岩瀬文庫(あらゆる書物の宝庫)への行き帰り、町角の仏壇店に貼られたポスターが、すーぱー絵解き座の活動を知らせる契機であった。たしか地獄絵の絵解きであったと思うが、その時は残念ながら聴くことはできなかった。その後、大学の授業のなかで、聖徳太子絵伝の絵解きに挑戦した。学生の頃から通っていた、富山の井波(いなみ)瑞泉寺の太子絵伝の絵解きにならい、井波に隣りあう城端(じょうはな)善徳寺(こちらでも蓮如上人伝絵解きが伝承されている)の虫干(むしぼし)法会で学生たちと共に披露し、今まで十年間続けている。三年前、そこに、すーぱー絵解き座の一行が訪れたのがご縁となり、一昨年には城端で催された絵解きフォーラムで、副座長に出演していただいた。そして昨年、安城歴史博物館で開催された展覧会(安城・本證寺に伝わる最大の太子絵伝の大作を中心とした「まねる うつす うたえる」)のイベント「絵解きフォーラムin安城」では、ついに梛野座長との競演、もとい前座をつとめることが実現した。学生たちの聖徳太子絵伝絵解きは、あくまで太子伝を元にした絵伝のものがたりであるが、琵琶を弾きながらの梛野座長の絵解きは、まさに感動的な自由闊達なエンターテイメントであった。これこそ、今に生きる絵解きそのものである。

絵解きという仏教最古・最大のメディア
 絵解きの歴史は、きわめて古く、かつ国際的である。それは仏教の成立と共に生まれ、伝わってきたグローバルな文化である。むろん、中心はブッダ(釈尊)の一代記、つまり仏伝であった。釈迦八相として描かれたり、そのハイライトである涅槃図という格別な大作は、日本でも至るところの寺で釈迦涅槃の日に掛けられるが、もちろんこれをただ拝すのみでなく、絵解いて釈尊の事蹟を説き、その遺徳を讃えたのである。釈迦一代の説法が経典となるが、その代表である法華経もその絵相が描かれて説かれた(富山の本證寺には二十二幅から成る最大の法華経絵の大作が伝わる)。浄土の教えでは、唐で織りだされた浄土変(へん)の巨大な一幅が「当麻曼荼羅」として日本に伝わり、その縮小版が全国に広まって、観無量寿経疏の講説を通して弥陀の極楽浄土への導きが絵解かれた。一方、地獄をはじめとする六道の苦患をあらわし、極楽浄土への希求を誘う絵解きも様々なかたちで民衆のなかで展開した。
 日本では、仏伝以上に、仏法を流布しせしめた聖徳太子伝が、絵解きの中心となった。古代には、太子ゆかりの四天王寺や法隆寺に、壁画として制作され、太子を観世音菩薩として祀る聖地に参る人々に、絵解きによって太子の偉大な生涯を物語ったのである。それが、中世には、掛幅画(掛軸)という便利なツールにうつし換えられることによって、どこでも(いつでも)絵解くことができるようになった。それも寺の宝物であることに変わりはないが、飛躍的に日本の絵解きが発展することになる、大きな要因なのであった。

絵解きを担う人びとの境界性
 絵解きは、たんなる絵相の説明ではない。仏法を説き広める布教の手段のひとつとしては、これも紛れもなく説法の一種である。と同時に、絵を解くことによる説法は、その絵相にこめられる仏法の世界観や理念への扉を、説き語ることによって開いてみせる、まさに〝絵ものがたり〟のしわざである。それゆえに、絵解くことは、僧尼だけの独占的な専売特許ではなかった。中世には、俗人も、絵解きを芸能として営むことがあった。室町時代の『三十二番職人歌合』絵巻に登場するのは、小琵琶を携え、羽根ざしを持った俗人の男性である。おそらく琵琶法師のように伴奏しながら絵を説きものがたったのであろう。そのように、僧と俗の双方が絵解きを担った。そして、女性が絵解くことも大きな特徴である。その代表が、地獄極楽の絵(観心十界図)を携えて都鄙をめぐった熊野比丘尼たちであろう。熊野三山や伊勢神宮の勧進に大活躍した女性宗教芸能者による絵解きは、独特な美声と節回しで魅力を発揮し、人の世の因果や輪廻のことわりを世間の人々に植えつけた。こうした絵解きの民衆のなかへの広がりが、日本の社会のなかで仏教を血肉化するのに大きな役割を果たしていたのである。それを担う人々は、聖と俗、男と女にまたがる、まさしく境界上にはたらく存在なのであった。

絵解き文化の豊かな土壌
 愛知県(尾張・三河)は、絵解きに用いられた中・近世の絵画を大量に遺す地域であり、実際に、そうした文化伝統は、浄土真宗を中心に豊かに伝承されていた。絵解きとは兄弟の様な関係であった節談(ふしだん)説経の、もっとも盛んな土地柄である。時代を遡れば、尾張万歳の祖と伝えられる長母寺の無住(『沙石集』の作者)も、そうした民衆文化や伝承に深く根ざした説法者なのであった。
 いま、三河すーぱー絵解き座が、こうした伝統を背景にもつ尾張名古屋の、宗教と芸能が重なり聖俗の交錯する巷である大須において公演する企ては、そうした絵解き文化の豊かな歴史的文脈のうえにたしかに連なる営みであった。(ちなみに、私の核心的研究フィールドも、最古の『古事記』写本を伝える大須観音の厖大な宗教テクストである)。ただし、節談説教は、あくまで高座の上で説経師(今は布教使などという)が演説するのであって、それは、仏教の古代以来の伝統的な〝高座説法〟に連なる僧侶の役割とはたらきにもとづいている。しかし絵解きは、その座から下り、絵の前に立って、聴衆の前に一歩踏み出して語りかける。その立ち位置は、僧だけでなく、俗人もつとめることができる、まさに聖俗の越境上に立ったはたらきを、絵解きはあらわしているのである。僧職から世俗の方々も加わるすーぱー絵解き座の活動は、そうした絵解きのもつ境界的なパフォーマンスのあり方を、現代社会のなかでよく体現しているといえよう。
 名古屋大学でも、いま、人文学研究のうえで、日本のすぐれた文化遺産としての〝絵ものがたり〟を、絵巻・絵本のみならず、絵解きに焦点を当てて、その普遍な価値を探求し、世界に発信するプロジェクトに取り組んでいる。いつか、すーぱー絵解き座の皆さんと、海外での絵解きライブのコラボレーションを一緒に取り組みたいというのが、私の夢である。

阿部 泰郎 /あべ・やすろう
 名古屋大学大学院文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究セン ター教授。専門は中世文学や絵画の研究。
聖徳太子信仰を、文献資料だけでなく、絵解きを含む生きた「 テクスト」も合わせて複合的に分析、高い評価を得る。 学生に絵解きの指導もおこなう。
 著書に『湯屋の皇后』『聖者の推参』『 中世日本の宗教テクスト体系』など。