家康と寺小話

絵解き座勉強会で使用した資料をもとに作成した読みもの♪
家康公と三河地方の寺院その因縁とは・・?

はじめに
 永禄6年(1563)3月2日、松平元康は織田信長との同盟強化のため、元康の嫡男・信康と信長の娘・徳姫の政略結婚を進め、晴れて婚約にまでこぎ着ける。二人の年齢は当時ともに五歳。このため実際の婚儀は四年後の永禄10年であった。そして同年7月6日に改名し「家康」と称する。(徳川家康と名乗るのは永禄9年以降)

三河武士と念仏
 一向一揆という民衆が蜂起した中世において、最も宗教を求めていたのは武士である。特に下克上の乱世を目の当たりし無常観の高まりは最高潮となる。常に死と隣り合わせの日々が精神的な拠り所を求めることは必然であった。持仏や経帷子(きょうかたびら)の存在、信長が傾倒していた「天道思想」もそれを物語っている。
 このような時代背景により、家康に仕える三河武士は念仏の教えに入信していた。

三河と真宗
 三河地方は早くから浄土真宗と関わりが深い地域であった。『三河念仏相承日記(注1)』によれば康元元年(1256)、関東に居していた真仏・顕智・専信上人らが京都の親鸞聖人に会うため上洛途中に矢作の薬師寺で念仏勧進を行い、下向に際して顕智上人が和田円善のもとに逗留して3年間に渡り布教し35人が真宗に帰依した。そのうちの一人「信願坊(注2)」が赤渋に道場を開いたことが以後の三河での真宗繁盛を方向付けた。
 しかしながら現在のような宗派形態は存在せず、浄土真宗はあくまで天台宗の一派として位置づけられ、混沌とした状況であった。
 この地域の真宗に大きな影響を与えたのが蓮如上人である。応仁元年(1468)ごろ土呂を本拠として三河各地を歴訪したと伝えられている。15世紀中頃、三河では土呂本宗寺などで寺内町が成立したほか、徳川家臣団の中でも有力な石川氏、本多氏などの信仰を集める。本證寺(注3)に残る門徒連判状には実に109名の門徒武士の名前が確認できる。

一揆の発端
 今川義元による三河支配時代は、真宗寺院などの寺社勢力に対して比較的優遇措置がとられていた。すなわち、寺・門前町は武将の支配権が及ばない守護不入となっていた。
 家康は、家臣の上野城主・酒井忠尚が今川氏と内通した疑いがあるとし、佐崎城主・菅沼定顕に命じて上宮寺から籾を借りさせようとしたものの、これを拒絶されてしまう。このため、家康は上宮寺から無理矢理に兵糧米を奪い取らせたという。(『家忠日記増補(注4)』『参州一向宗乱記』) これに激怒した上宮寺が門徒や農民に檄をとばして蜂起したのが一揆の発端と伝えられる。(注5)

反家康勢力と松平家の分裂
 家康が一向一揆に手を焼いたのは2つの大きな理由がある。

  1. 反家康勢力(主に三河豪族)の存在
  2. 真宗門徒でもある家康家臣の存在

 反家康勢力というのは、吉良義昭(東条城主)や荒川義広(幡豆郡八面城主)など親今川派といった三河豪族である。彼らはこの一向一揆に乗じ、一揆方に加わって家康と戦っている。また家康の一族・家臣の中には門徒が多く含まれており、彼らは主君へのへの忠誠心をとるか、教団への信仰心をとるかの二者択一を迫られた。
 一揆に加担した者には、本多正信、本多正重、松平家次、蜂屋半之丞貞次、渡邊守綱、酒井忠尚、夏目吉信などがいる。一方、家康に忠節を尽くした者には、本多忠勝、石川家成、石川数正などがおり、彼らは改宗までして家康に味方している。
 このように三河一向一揆は、松平家中の内紛や反家康勢力による利害関係が一致したもの同士が一揆を利用したことが背後にあり複雑な構図となっていた。
 三河碧海郡で勃発した一揆は、幡豆郡、加茂郡、額田郡にも飛び火するなど、家康の地盤・西三河全土にも広がっていき、家康は独立後はじめて大きな危機を迎える。一揆との戦いは、各地で展開され、家康は連日のゲリラ的な一揆勢の攻撃と主従が敵味方となって戦う事態に大いに悩まされた。
 永禄6年10月頃に家康は吉良義昭の三河東条城への攻撃を開始。年末までには陥落させたという。同年11月25日には、針崎の一揆が岡崎城を攻めて家康と戦ったが、このとき一揆に加担した蜂屋貞次は、家康の姿をみると逃げ出したという。(『松平記』『三河物語(注6)』) 翌年永禄7年(1564)1月11日の上和田の戦いでは、家康が銃弾二発をうけたが固い具足を纏っていたため命拾いしたとある。(『岡崎記』『松平忠勝記』 同年2月には、一揆勢との和議の話が持ち上がり、月末ごろに浄珠院にて和議が成立する。(『武徳編年集成』『武徳体成記(注7)』など)
 戦後、家康は帰順した家臣を許す一方、一向宗に対しては改宗をせまり、これを拒否すると寺を破却し僧侶らを追放するという厳しい処分を下している。なお、吉良義昭氏と荒川義広氏は、上方に酒井忠尚氏は和睦後も最後まで抵抗を続けたが、やがて敗れて駿河へ逃れている。また、本多正信(本證寺門徒)も帰順後まもなく出奔している。約半年間に渡る三河一向一揆に苦しめられた家康であったが、これを鎮圧した結果、家臣らの結束は強まり、反家康勢力を三河国から駆逐することに成功したのである。

  • (注1)岡崎市上宮寺に伝わる書籍『三河念仏相承日記(みかわねんぶつそうじょうにっき)』は、三河地方の真宗の始まりが記録されている。
  • (注2)現在の針崎にある勝鬘寺の開祖と言われている。
  • (注3)仏教絵解きライブin 岡崎城二の丸能楽堂【昼の部】三番手で住職が出講。
  • (注4)松平家忠が徳川家康の側近として仕えた天正5 (1577) 年から文禄3 (1594) 年までを記した日記。
  • (注5)ほかにも諸説がある。
  • (注6)大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と 大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書。
  • (注7)歴史書。 30巻。林信篤,木下順庵らの編纂。貞享3 (1686) 年完成。松平氏の発生から徳川家康の一生の事跡,武功を記したもの。