報恩講

浄徳寺報恩講

  • 場 所:愛知県西尾市上矢田町
  • 期 日:平成29年2月18日(土)
  • 出 向:松原紗蓮
  • 期 日:平成29年2月19日(日)
  • 出 向:梛野明仁

 2月18日、19日と西尾市矢田町にある浄徳寺さまの報恩講が勤まりました。諸般の事情でしばらくお休みを戴いておりました貴院の報恩講が力強く復活を遂げました。準備期間の苦労もありましたが、あっという間の一昼夜法要でありました。
 御満座のあとに最後の挨拶。一同が見守るなか絵解き座員でもある若院さんが参詣者さまの前に立ちました。挨拶を聞いた人の中からはもらい涙を浮かべる方もいらっしゃいました。


絶対他力の報恩講

浄徳寺 副住職 太藤世雄

 「自力だ他力だ云うけど、ぜんぶ他力だってことです。私たちのものは一つもない」。昨夏の組(岡崎教区第11組)の暁天講座で、刈谷市の西念寺住職が云われたセリフだ。
 「残念ながら何もしていないんです。台本に書いてあるまま、みんなと一緒に走って、立ちどまって、をくり返していた。出来るだけ考えず、その場で起こること、見えること、空気に反応したい。私は体を貸してるだけ」は、俳優永作博美が読売新聞(2011年4月19日付朝刊)のインタビュー記事で、出演した映画『八日目の蝉』について、 圧巻の演技だがーーと振られ、語った言葉。おそらくは無自覚に、だけど語られていることは「他力」そのもの。

 19日の最後の挨拶で話したので詳しくは省くけど、ひょんなことから、(憎っくき!)父から撮っておけと云われ、云われるまま境内の老樹をなんとなくパシャ、パシャ、パシャと写したことが、思えば今度の当山8年ぶりーーぼくにとっては初めてーーの報恩講のきっかけとなりました。一度辞めてしまったことをよく復活させたね、と褒めるようなことを云ってくれる人もいたけど、だけどぼくはなんにもやってません。ただ“反応し”、そのつど“体を貸し”ただけ。“ぜんぶ他力”です。そうやって「私」を動かし、生かしめるマイ・アミダー(「私」以外のあらゆるものごととそのはたらき。親鸞さんだってここに含まれる)への感謝は尽きない。いかにも、ぼくこそ、“恩波の上にただよっている小舟のような者”、なのだ。なんまんだぶ。

 最後に、うちの座長がご自坊の報恩講のときに、ときどきため息のように云うあの一言をまねして、ぼくにもここで云わせてください。
「いい報恩講だったなぁ……」
(むろん、そう思わしめるのも、他力です)。

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