月例会

4月例会_2017

 前半は本澄寺所蔵の聖徳太子絵伝の絵解きを拝聴しました。出講はもちろん座長・梛野明仁です。

  • 場 所:西尾市徳永町
  • 会 場:浄名寺
  • 期 日:平成29年4月5日(水)
  • 出 向:梛野明仁(前半)
  • 出 向:小山興圓(後半)


– 内容紹介 –
 昨今話題に上ることの多い聖徳太子という名乗り。生前の呼称は「厩戸皇子(うまやとのみこ」である。その誕生にまつわる場面が臨場感をもって描き込まれている6幅のうちの第1幅。受胎の場面ではインド(天竺)において富豪として伝わる月蓋(がっかい)長者の一人娘・如是姫(にょぜひめ)の病気平癒を機縁とした逸話を引き合いに出し絵解きを展開。一光三尊仏(善光寺本尊、専修寺は完全複製拝受)が天竺で造られる由緒を述べ、後に中国から百濟へ運ばれ、さらに日本へ伝えられたと説く。テーマとなる一光三尊仏は仏像の伝来話であるが、お像が「物」として運ばれるには人手の介在が必要となる。その作業が実際に施されるには、そこに生きる人の動機が鍵となる。つまり日本にまで仏教が伝わる上で、功績大なる人格が求められ聖徳太子が登場してくるのだ。 絵解きの中では具体的に次のように語られる。
 太子はインドで波斯匿王(はしのくおう)として業を果たし、中国にて生まれ変わり南岳衡山(なんがく・こうざん)にて慧慈(えじ)として業を果たし、遂には日本において厩戸皇子として誕生したとする。その生まれ変わりという不可思議な現象は、現代にあって世界地図を容易に開扉することのできる人にとっても容易には想像し難い人力(徒歩を基本)による生活圏の拡張という営みが、確かに連続的に日本にまで繋がっているという理解を助ける意図として描かれており、この目的のため受胎場面は定式化した構図となりよく機能していると言いたい訳である。実に世界規模の大きな視野に立って文明の潮流を理解している。それを1400年前の日本に住む多くの人々が受け入れやすいように実在の人物の功績と重ねた物語としている点は、飛鳥時代の識者が想像力に富み、また国際感覚にも長けていたことをうかがわせる。ここに浪漫に満ちた絵解きの醍醐味を感じる。史実の部分を仏画に託し伝承という巧みな工夫を注ぎ私たちに絵解き説教として届けられているということであろう。
 その後、物部守屋合戦から四天王寺建立までを琵琶による弾き語りによって一時間弱ほど聴き入った。なお、聖徳太子の名乗りについて確認できる歴史上の文献は以下の様。

  • 日本書紀
    厩戸皇子(うまやとのみこ)/厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)/豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)/法主王(のりのぬしのおほきみ)
  • 古事記
    上宮之厩戸豊聡耳命(うへつみやのうまやとのとよとみみのみこと)
  • 法隆寺金堂の薬師如来像の光背
    東宮聖王(まけのきみひじりのきみ)
  • 上宮聖徳法王帝説(※)
    厩戸豊聡耳聖徳法王(うまやとのとよとみみのしゃうとくのりのおほきみ)/上宮厩戸豊聡耳命(うへのみやのうまやとのとよとみみのみこと)/厩戸豊聡八耳命(うまやとのとよやつみみのみこと)/上宮王(うへのみやのみこ)

※『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)は、厩戸皇子(聖徳太子)の伝記の1つ。現存する聖徳太子伝記としては最古のものである。作者、成立年代ともに不詳。写本のみ伝わる。

 後半は徳川家康(松平元康)と刃を交えた中心的寺院・本證寺住職:小山興圓が出講です。岡崎城二の丸能楽堂での仏教絵解きライブを前に基礎知識の確認として中世三河の郷土史を学びました。内容は「仏教絵解きライブ in 岡崎城二の丸能楽堂」特集ページ内『家康と寺 小話集』の項を参照ください。

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